rain





しとしとと景色を灰色に濡らす雨の音が心地よい。食堂にまでしみこむ湿気は粘り気よりも冷ややかさの方が勝っていた。肌寒い。熱いコーヒーがうまい。熱が時間をかけて喉を伝って落ち、体中に染み渡る。少し苦い。だが苦くなきゃやってられない。


「それで貴方は何も嫌じゃないんだ?」


いつのまにか向かいの席のロックウェルが頬杖をついて私をじっと見つめていた。さっきからずっとそうしていたみたいだ。その視線は私の反応を待っているというよりも、植物でも観察しているような微動だにしない視線だった。
半分くらい残ったコーヒーはもう飲む気も無いのだろうと思われる位置に置かれていた。こいつも、ブラック。


「……うん」


どちらかといえば、「うーん」と悩むときのような口ぶりの返事に、ロックウェルは鼻で笑った。何もかもお見通しですよ、といわれているようで腹がたった。
一体、お前に何がわかるっていうんだ。私にだってわからないのに。


「嫌じゃないなんて、その方が可哀想ですよ。傍から見てると」

「可哀想とか」

「無理して言っているみたいで、哀れで、あぁ、可哀想」


ロックウェルは舞台俳優さながらに大げさに眉をひそめて哀れんだ表情を作った。私を苛立たせるためだとはわかっていながら、わかっていても本当に腹が立つ。この男は人の気持ちを操るのがうまい。いや、もしかしたら私が子供なだけ?
ともかく子供じみた苛立ちを顔に出すのは癪なので、私はなんとか涼しい顔をキープしつつ彼を見下す角度に顎を上げた。


「じゃあ、私が嫌だと言っていたら? もうこんなの嫌だ、やめたいって」

「可哀想だから、俺が助けてあげる」


私はその言葉を受け止めるのに一瞬間を空けて、深く長くため息を吐いた。ロックウェルはそれに対して自嘲的に笑った。「本当なのにな」と呟いた。




私とエドガー閣下との関係はもう1年近く続いていた。単に上司と部下としての関係でなく、1ヶ月に数回のペースで彼の部屋で夜遅くまで酒を飲み、互いにいい気分になってきたらセックスをするのが恒例になっていた。いつからだっけ……と思い出そうとすると、そのときの状況はすぐに思い出せるし、細かいところまで覚えているのだけど、やっぱりそれはずいぶん前のことで、今とはまた状況が違ったんだなと思う。要は、互いの認識や、気持ちが。

閣下のジャマイカ総督就任祝いのパーティーで、私は常に閣下の隣を陣取り、いかにも忠実な部下らしく閣下とその周りのお偉いさん方に酒を注ぎ、自分に注がれた酒はすべて飲み、そう、とにかく飲んでいた。私は普段はそんなに飲む方ではないし、強くも無い。ただその日は気分が良かった。閣下も機嫌が良かったから。少し、期待していた。酔っ払ってしまえば、何かあるかもしれない。何が? そんなの、わからない。
閣下もそれなりに飲んではいたが、もともとアルコールに強い性質なので、たぶんそんなに酔っていなかったと思う。でもふらついて彼の肩に寄りかかる私に何も言わず、優しく背中を撫でてくれる程度には気が緩んでいた。
「寝るか?」といわれて、曖昧に首を振った私に「一緒に寝る?」と聞いてきて、それが始まり。
彼の寝室に向かい、流れに任せてセックスをした。絶対に抗えない流れってあるものだ。閣下にしたってその流れに身を任せたに過ぎない。だがその流れを作ったのは8割方私だったと思う。

「これ、社外秘な」。次の日の朝、閣下はわざと仕事用語を使って、おどけた調子でそう言った。私も笑って、「言えるわけ、ないじゃないですか」と言った。心の中で「やっぱりな」と思いながら。閣下には細君が、マリア様がいる。
それで決めた。もうこういうことはしない、と。一回なら、『過ち』で事が片付く。だが二回目があれば、完全に体だけの関係になってしまう。それが嫌だった。私は閣下が好きだった。
だが結局二回目はあった。その時の流れを作ったのも、私だった。最初の夜から1ヶ月くらいたった頃だったと思う。要するに、私の方で我慢がきかなくなった。わざわざ夜に、彼がもう寝室で眠りにつくかつかないかの頃、仕事の話を持ち込んだ。
夜分遅くに申し訳ありません。相談があって――。
それからその仕事に関して愚痴をいい、閣下はそれに付き合ってくれて、それから、そう、また酒を飲んで……。大して飲まないうちから私は酔った振りみたいなことをして、閣下がまた前と同じように私をベッドに寝かしつけて……。

それから、もう吹っ切れてしまった。



「割り切ってるよ。自分でも驚くくらい。確かに最初は良くないと思ってたけど、それってきっと自分を無理に押さえつけてたからで。私だってあの人としたいだけだったんだってわかった」

「うわ、変態」

「はいはい」

「冗談」

「別にいいさ。どーせ……」

「違くて」


ロックウェルの声に突然重い響きが加わった。茶褐色の瞳は思いのほか真っ直ぐで、思わず目を逸らしてしまった。


「俺が言ってるのは、貴方のことですよ」


私はロックウェルが残したコーヒーの残りを見つめ続けた。


「本当は、したくなんてないくせに。したいだけなら誰だっていいじゃないですか。例えば私だって」


ロックウェルに視線を合わせる。なんて整った顔立ちだろう、と改めて思った。閣下とは違う、芳醇なワインのような、どこか甘い顔立ち。瞳。
彼に抱かれたい女なんていくらでもいるだろう。男だって、いるかもしれない。


「貴方はただ閣下のそばにいたいだけでしょう? でも閣下は結婚しているし、今更貴方が彼の一番になるなんて無理な話だ。だったらせめて体だけでつなぎとめて、彼女の次の立ち位置にいたいって?」

「……知らない」

「どんな気持ちであれ、正直であるべきですよ。その方がずっと楽。本当はこんな関係嫌だけど、そうでもしなきゃあの人のそばにいられないから仕方ない。そう言えば?」


投げやりな口調だったけれど、そこには温かい響きが感じられた。

自分に正直でいられたら、楽、なのだろうか。それで自分に幻滅しても?


「仮にお前の言うとおりだとしても、私がどう行動しようと勝手だろう」

「ええ、貴方の勝手ですよ。だからこそ私が口出してるんじゃないですか。放っておいたら貴方はきっと……」

「立ち直れないくらい傷ついてしまう?」


後に続く言葉を受け取って、余計なお世話だ、とでも続きそうな雰囲気をロックウェルは感じ取ったのか、何も答えなかった。
彼は前髪を片手でかきあげて、天井を仰ぎ見た。それから一つ嘆息して、俯きがちに斜めに視線を落とした。


「……いいえ。別に、貴方のためじゃない……かな」

「じゃあ、自分のため?」


ロックウェルは答えなかった。「あぁ、もう」と呻いて、熱を測るみたいに掌を額に押し当てた。


「こーんなにいい男がここにいて、いつでも貴方を待っているっていうのに、貴方は本当にバカだ」


私は思わず笑ってしまった。ロックウェルは心外といった顔で私をにらみつけ、「本当に、バカ」ともう一度言った。


「ま、いいですよ。当座はね」


整った形の眉を上げて、ロックウェルは窓の外を見た。
雨はまだ止まない。普段は中庭を抜けた先の訓練施設まで見通せるのに、今日は中央の噴水がかろうじて見えるくらい。「お先に」と付け加えて彼は席を立ち、食堂を出て行った。

あっさりしたものだ。だがその距離感がちょうどいい。つかず、離れず。彼はきっといつでも同じ場所で私を待っていてくれるのだろう。
私がそう思っていることを、きっと彼は知らない。


灰色の景色。冷たい空気。コーヒーは幾分か冷めた。

私は、なんて贅沢なんだろう。


「まぁ、バカだよな」


自然とこぼれ出た呟きは、我ながら満足げだった。